<新天皇・徳仁伝説>
伝説というか事件簿です。
ドス子の事件簿より転載。
■第3期-中等科時代-■
- 学習院中等科に進学した浩宮、成績表を持ち帰り「おたたさま、お点が赤座布団の上に乗っかっているよ」 と母美智子さまに報告。成績の悪さを赤いアンダーラインで注意書きされるほどに勉強は不出来だった事件。
- 3歳の妹紀宮について12歳浩宮が言葉を求められ、「サーヤはキラキラで一生懸命ね」と年齢の割に幼すぎる発言、取材記者が何とかフォローしてあげる事件&color(#004a95,#99FF00){2ch書き込み}
Part1555-918 可愛い奥様 sage 2009/05/21(木) 16:02:50 ID:+Iwr5zMqO サーヤの三歳(白いワンピース着てスキップしてる写真付)のお誕生日の記事に、兄の浩宮さまの妹評が載っていた。 “サーヤはキラキラで一生懸命ね” 私が今でもその記事を覚えているのは、その後に続く記者の方の〆の文章のせい。 “意味はわからないが何となくわかる表現。”って書いてあった。 当時浩宮さまは12歳6年生なのに、妹のこと聞かれた答えが記者さんに目一杯フォローされてるって、子ども心にもびっくりした。 何となく雅子さんと話が合うわけだよね。 Part1556-20 可愛い奥様 sage 2009/05/21(木) 19:00:02 ID:QVqmm75/0 >>前スレ918 >サーヤの三歳(白いワンピース着てスキップしてる写真付)のお誕生日の記事に、兄の浩宮さまの妹評が載っていた。 >“サーヤはキラキラで一生懸命ね” >当時浩宮さまは12歳6年生なのに サーヤ3歳の誕生日なら1972年の4月18日。 ナルさんは1960年2月の早生まれだから12歳中1だよ。 |
- 一家で雪道を歩いている折、すぐ隣で父上皇太子殿下が滑って転んだのにぼーっとしたまま何もしない事件
ソース:1972年冬 雪道で滑って転んだ父上に手を差し伸べる礼宮と、見ているだけの浩宮 - 中学生のとき、知人に送った年賀状で「賀正」の賀の字の貝が横一本足りなかったのが、はっきりTV画面に映った事件
- 中等科時代、数学の家庭教師の授業を受けていた折、問題の答を間違えることが嫌でなかなか解答を示そうとしなかった事件
浩宮の学習院高等科時代の主管=担任であった小坂部元秀著『浩宮の感情教育』飛鳥新社(2001年) 、p21-22より ――高等科の数学科の佐藤茂人教諭が、中等科時代の浩宮の家庭教師をつとめていたことがある。その時の話で、浩宮は自信がないと練習問題の解答をなかなか示そうとしなかったとか。数学の誤答を提出することを、嘘をつくことと同義に考えていたという。中等科の彼には「誤答」→「嘘をつくこと」=「いけないこと」という、常識では考えられない思考の枠がはめられていたといえよう。 |
- 中等科時代、東宮御所で家庭教師の授業を受けているときに「窓を少し開けた方がいいね」と言われて窓を全開、「もう少し閉めて」と言われて今度は全部ぴたっと閉めてしまう、窓の開け閉め加減が理解できない事件
小坂部元秀著『浩宮の感情教育』飛鳥新社(2001年) 、p73-73より この学年の相(原文ママ)主管の佐藤茂人教諭が、浩宮の中等科時代に数学の家庭教師を引き受けていたことは先に述べた。 冬の東宮御所での勉強中、部屋の暖房が利きすぎているので 「窓をすこしあけた方がいいね」と言うと、全部開放し、しばらくして 「もうすこし閉めて」と言うと、ぴたっと閉めてしまった。 ――「浩宮には、窓をちょうどよく開けたり閉めたりするってことが出来ないんだ。自分で窓をしめたりあけたりする習慣が、小さい時からなかったんだろうね」と佐藤さんは言い「だから家庭教師に行った時には、なるたけ自分の部屋の窓のあけしめをやらせたんですよ」と語ってくれた。 きちんと決められたことはできるが、きわめて日常的な、小さい時からわれわれが日々の生活の中で自然に身につけるもの、生活の知恵ともいえないような文字通り「瑣事」にうとい点が浩宮にあるのは、やはり否めなかった。 美智子妃の母親としての細かい心づかいがあったとしても、あの東宮御所で多くの側仕えの人々に付き添われた生活では、そこまではカバーできなかったということだろう。 |
- 中等科3年生当時の徳仁を美智子さまが「浩宮の人柄のなかに、わたくしでも習いたいような美しいものを見いだしています」と評する、反抗期には全く無縁っぽい「PURE」風味で寧ろ心配すべきじゃないの?事件
河原敏明著『美智子さまのおことば 愛の喜び・苦悩の日々』講談社文庫(1997年) 、p112より 客観的に満足かということではなく、わたくしの感じで言えば、浩宮の人柄のなかに、わたくしでも習いたいような美しいものを見いだしています。浩宮を大切に思っているとしか申し上げようがございません。(昭和49年10月お誕生日記者会見) |
- 中等科修学旅行の宿泊先部屋で枕投げが始まり、同級生の皆は空気を読んで浩宮には当たらないように投げ合っていたのだが、それが「おもしろくなかった(原文ママ)」浩宮はある男子生徒の後頭部を枕で力任せに叩き、その生徒は思わず反撃、ナル顔面に枕がヒットし大量鼻血事件≪週刊女性2010年3月30日号 学習院“深イイ”話7連発 その3 修学旅行の枕投げの夜に起こった…皇太子さま流血事件≫
■第4期-高等科時代-■
- 1976年、知的障害児童施設「ねむの木学園」の宮城まり子園長がご招待を受け園児の絵画作品を持参し東宮御所参内、皆夢中になって鑑賞しているのを面白く思わなかったのか「わたくしのは?」と当時高等科の浩宮が空気読めない発言、それに間髪入れず「あなたのは、1枚残らずちゃんっと、しまってございますよ」とKY徳仁のあしらい方を心得すぎな母美智子さま、絵画で注目を集める知的障害児童の存在に次々代天皇予定者が嫉妬事件
2009年4月12日皇室日記スペシャル「両陛下がはぐくまれたねむの木の絆」より 久能靖:どういうきっかけだったんですか、最初に(美智子さまと)お会いになったのは? 宮城まり子:最初? きちっとお会いしたのは、絵を見たいからって言うので、東宮へ絵を持っていったんですよね。で、見ていただいたとき、皆夢中になっちゃったんですよ。 ったら今の皇太子が、ちょっと嫉妬心かな、「わたくしのは?」とお聞きになったの。ったら皇后さまがね、間髪入れずに「あなたのは、1枚残らずちゃんっと、しまってございますよ」と仰ったの。 そしたらニコーッと笑って、「そう、ありがとう」って言われたときの、その間髪入れずのお母さまの答っていうのは、これは素敵なお母さんだなーって思いました。 ttp://www.youtube.com/watch?v=r9nybvlRBss &youtube(http://www.youtube.com/watch?v=r9nybvlRBss ) ※当事件は『女性自身』2009/4/21号 p52<ご成婚50年愛の秘話「皇后さまは“日本中の子どものお母さま”」>宮城まり子氏記事でも触れられ、1976年の出来事と判明している。浩宮が誕生日を迎え新年度に入っていれば、16歳高等科2年生である。 |
- まだ学生の時、テレビに映って本人が「子供の頃に、僕の家には国道が走っているって言ったら、級友に驚かれまして...(笑)」と無邪気に言っていた事件
- 学習院時代の皇太子は人の噂になるほどの存在感がなかったらしい。担任の先生も「身分がなければ記憶に残らない生徒だった」といわれてる事件
- 学生時代に教室の掃除をした時に、皇太子の机を動かそうとして机が倒れ中から寒い点数の答案用紙(本来なら親に見せるもの)がいくつも出てきて、皇太子は「エヘヘヘヘ…」と笑ってごまかした事件
- 同級生がトイレでタバコを吸ってる間見張りに立たされてた、断るでもなく注意するでもなくただただ利用される事件
『週刊現代』1993年1月23日号 p25より引用 一方、皇太子は学習院高等科3年のころ、殿下の悪友仲間が学校のトイレの中でタバコを吸った。そのとき、たまたま居合わせた殿下に、「先生が通りかかったら教えてくれ」と、廊下での見張りを頼んだ。頼まれた殿下は抵抗するでもなく、 「あ、そう」 と数分間の見張り役をお引き受けになったそうです。 |
- テニスをしてる女子生徒に玉拾いを命令されてた事件
- 学生時代、学食のカレーを肉多めに盛ってもらおうとして、厨房担当の女性にたしなめられた事件
小坂部元秀著『浩宮の感情教育』飛鳥新社(2001年) 、p67より ごく稀にではあったが、浩宮も高等科食堂を利用することがあった。浩宮自身が食堂の昼食に興味を持ったためかもしれない。 カレーライスを注文して、食堂の賄いの女性に 「お肉をたくさん入れてください」と頼んだが「高等科のカレーライスは安いでしょう、だからお肉はあまり入っていないのよ」と言われて 「そうですか」と納得していた。そんなこともあった。 生徒は普通、食堂のカレーライスがどの程度のものか、よく知っていたから「お肉をたくさん……」などという場違いな注文を口にすることもなかったが、そんなところにも世間知らずという意味での浩宮らしさが覗いていた。 |
- 学習院男子高等科二年時、第二学国語として選択履修していたフランス語を、恐らく浩宮の頭脳スペックでは授業についていけなくなって放棄、それについて担任が尋ねると「ええ、いろいろ事情がありまして……」と誤魔化す事件
小坂部元秀著『浩宮の感情教育』飛鳥新社(2001年) 、p23-25より このあと(補足:当時の皇太子殿下と美智子妃殿下揃っての父母面談で話題が変わり)美智子妃は 「二年になってフランス語をやめてしまいましたが、苦手と申しましょうか、ちょっと不安があったようなのです」 と、浩宮のフランス語の選択放棄について触れた。浩宮は高等科一年で第二外国語として選択履修していたフランス語をに、二年になるに当たって放棄していた。 私がこの件について、五月はじめのホームルームのあと、浩宮に雑談風に 「フランス語をやめたんだね」と訊くと、 浩宮は少し眩しそうな目つきをして 「ええ、いろいろ事情がありまして……」と曖昧な応え方をした。私はそれ以上深く追求しようとは思わなかった。 高等科では一年次に必修の英語以外に第二外国語として、ドイツ語、フランス語のいずれかを選択必修できるコースがある。しかし第二外国語は、二年、三年と進むにつれて負担が大きくなり、三年では一日に少なくとも一時間、ときには二時間連続の曜日もあって、その日は朝から五十分授業が八時限で夕方五時に終了という具合である。そのため二年になる段階で諦めて選択放棄する生徒があった。 浩宮もおそらく、その学習負担増と、そこからくる全般的な成績の低下を懸念したのではないか。学習院大学への内部進学推薦基準は、高等科の一、二、三年の全教科平均点が各学年六十点以上というハードルが設けられていた。フランス語の担当教員にきいたところでも、フランス語の成績は他教科に比べて低かったようだ。 「ご本人も“いろいろと事情がありまして……”と、言っておられました」 「そうですか」 両殿下は顔を見合せ 「将来のことを考えて、英語の他にフランス語も馴れておいた(原文ママ)方がよろしいかと思い、高等科に進むときに薦めたのですけれど……」 と美智子妃はやや残念そうな表情であった。フランス語は、やはり海外からの国賓などを念頭に置いての将来的な配慮の一環だったのだ、と私は納得した。 フランス語の選択放棄について美智子妃がとくに話題としたのは、浩宮が私に訊かれたことをご両親との間で話したためかもしれない。いわば浩宮の「いろいろと事情がありまして……」という発言についての微妙なフォローだったのかもしれない。 |
- 1978年3月31日午後、東宮御所で開かれた浩宮高等科・礼宮初等科卒業を祝う会にて、礼宮がピアノ曲、浩宮がバイオリンを演奏し、その後に浩宮が当時の大ヒット曲だった石川さゆり「津軽海峡冬景色」をピアノ伴奏付きで2番まで独唱した事件
■第5期-成人後、婚約前-■
- 1980年2月23日二十歳になった浩宮、成年式でいつもより早い7時頃に起きなければならないため、弟礼宮・妹紀宮・東宮職員らから借りた全部で5つの目覚まし時計で“万全の体制”をとらなければならないほどに早起きが苦手事件
- 大学時代にコンパに参加。会費はいいですからと遠慮した仲間に向かって「いや、ちゃんとカンパしますよ」と浩宮が差し出したのは500円ぽっきり、お友達はジョークか本気か悩んだらしい事件&color(#004a95,#99FF00){2ch書き込み}
- 大学史学科での飲み会で酔っ払い「院歌を歌いましょう!」と一人盛り上がる事件&color(#004a95,#99FF00){2ch書き込み}
Part1755-156 可愛い奥様 sage 2010/03/16(火) 09:05:50 ID:UTf05b8U0 知り合いに学習院大学文学部史学科で皇太子の同級生がいたんて、また聞きで聞いた 浩宮エピです。 史学科で泊まりの旅行があったときに、当時の浩宮が酔っ払っちゃって、 「みなさん!さあ、院歌を歌いましょう!」って一人で盛り上がったんだって。 当時から空気読めなかったのかも… それで、みんなが「殿下、うるさいからもう寝なよ」と部屋に連れて行ったそうな。 |
- 大学時代、飲み会で急性アルコール中毒に陥った友人を「じゃ、後はよろしく」とほかの友人に世話を押し付けその場を立ち去った事件
- 大学オーケストラ合宿にて団員たちが酒盛り、別室にいた徳仁が楽しげな声が聞こえてくるのでそれに気付き宿の屋根を伝って窓から闖入押しかけ参加、飲み会終了後に廊下から戻ってくる徳仁を目にした見張り番役侍従たちは吃驚仰天事件≪週刊現代2009/10/10号≫
- 1983-1985年イギリス留学中に日本人旅行者に「うっそー!」と言われたが、 「うっそー!」の本義がわからず事件
ソース:徳仁親王著『テムズとともに 英国の二年間』学習院教養新書7 - 御成婚のおりに皇太子殿下の御学友(多分英国人)が テレビで学生時代の殿下のゲーム好き(マイコン)について語っていた事件
- イギリス留学時、現地のディスコ(?)に逝ったらファッションチェック(懐)に引っ掛かり(Gパン履いててダメだったんだよね)、入れてもらえなかった事件
- イギリス留学時代に生まれて初めてコインランドリーを使うことになり、洗濯物を詰め入れすぎて(恐らくこれも入れ過ぎた)洗剤の泡が洗濯機からあふれ出す事件
『女性自身』1993年3月18日号p49 より、徳仁親王著『テムズとともに―英国の二年間』(学習院創立125周年企画の学習院叢書、非売品)の孫引き箇所 私は手順どおりに機械の中に洗濯物を入れ、洗剤を注ぎ、お金を入れた。四十分ほどで出来上がると聞いていたので、四十分後に再び地下のローンドリー(孫引き原文ママ)に行ってみた。すると、あたりは泡だらけである。よく見ると泡は明らかに私が使用した洗濯機から流出している。そばにはあきれ顔の一人の学生がいた。「これは、君のか。泡があふれているよ」と彼は言った。洗濯物の詰め過ぎであった。 |
- (もちろん日本の皇太子であることは店員は知らなくて)しかし懲りずに2度目はわざわざ違うディスコを選び入り込んだ事件
- 留学中の寮にブルック・シールズと柏原芳恵ちゃんのシールを張る事件
- 1984年春、私的にパリ・ジュネーブ・南仏そしてイタリアベニスを旅行、カメラ持参で写真を撮りまくり、時には手持ちフィルムを使い果たしてしまい現地一等書記官に閉まっていたカメラ屋で追加フィルムを買わせる事件
『フライデー』1984年11月23日創刊号<『フライデー』にも投稿していただきたい殿下の「必撮」ポーズ>記事 p17より引用 今春、殿下は学位論文完成のための研修旅行として、パリ、ジュネーブ、南仏、イタリアなどを訪問されたが、古都ベニスでの“必撮”ぶりは、ことのほかだったという。この旅行、殿下ご自身がプランを立てた私的なものであったが、それはそれ、ローマからは堀駐イタリア大使が、ミラノからは田辺総領事が、という具合に案内人が駆けつけた。・・中略・・夕方には小松一等書記官が、すでにクローズになったカメラ屋で、追加フィルムの購入を頼み込んだほど。このご旅行で、殿下はフィルム200本ほどお撮りになったというから、プロ顔負けの撮影量だろう。 |
- 1985年2月22日イギリス留学中の報告を兼ねた25歳誕生日発表記者会見にて理想のお妃像を聞かれ、「ティファニーであれやこれやと買物する人では困ります」と、特定メーカーを名指ししてネガティブ発言事件【テファニー】
- 1985年秋イギリス留学からの帰国した折の会見にて「英国王室の警備を見て感じるが、日本の警備は過剰警備との印象を受ける。人数も多く目立ちすぎる」警備が厳しいのと自由がないのを指摘事件
- 軽井沢静養で弟礼宮とテニス、その折にどうやって入手したか不明だが1986年7月23日英国アンドリュー王子&セーラ妃結婚記念Tシャツを着て登場、そのまま平気でTV撮影取材も受けてしまう事件
1986年8月7日 軽井沢町千ヶ滝テニスコートでテニスを楽しまれる浩宮と礼宮、浩宮の着ているTシャツは英アンドリュー王子とセーラ妃との結婚記念顔写真入り
1986年8月 カラー映像からの兄弟の軽井沢静養テニス姿、徳仁Tシャツは青色でした
同上英国アンドリュー王子とセーラ妃結婚記念Tシャツ着用姿が、松崎敏弥著『浩宮さまのとっておき会話』表紙に - 浩宮と小和田雅子が全く同じ『FOCUS』1986/10/17号に掲載 され、その発売の翌週スペイン・エレナ王女レセプションパーティーで二人が出会う、偶然にしてはあまりに出来すぎな「運命の出会い」事件
- 1986年9月18日スペイン王室エレナ王女歓迎レセプションの挨拶で小和田雅子に決め顔上目遣いで見上げられ一目惚れし、後に7年越しの初恋を実らす事件(本当は初恋は別の人)
- エレナ王女パーティの直ぐ翌日、柏原芳恵のコンサートに行かれたとき東宮御所に咲く、エリザベス女王が紀宮に贈った特別品種の薔薇を持参して行った事件
参考画像:1986年10月19日 雅子に出会ったエレナ王女パーティーの翌日、新宿区厚生年金会館で開かれた歌手・柏原芳恵のデビュー7周年リサイタルにバラの花を持参して駆けつけた浩宮当時26歳 - 1987年4月25日高円宮邸での夕食会に招かれ、同じく招待されていた小和田雅子とツーショットに、兄のように慕っていた高円宮が齎した後年のgdgd状態につながる大きなきっかけ事件
『美智子さまから雅子さまへ プリンセスへの道』河原敏明、ネスコ(1993年) p65-66より引用 入省して三週間目の四月二十五日に、雅子さまは高円宮邸に一人招かれる。高円宮ご夫妻と浩宮、雅子さまの四人だけだった。英国人カップルも招かれていたが、「都合で欠席」とされた。 お二人は、高円宮夫妻とともに会食した。浩宮は、同年三月に訪問したネパール、ブータン、インドのアルバムを用意していた。写真は浩宮がご自分で撮ったものである。 ・・中略・・ 話ははずみ、たった四人のホームパーティは、数時間にもおよんだ。雅子さまがその日帰宅したのは、夜遅くなってからだった。 |
- 1988年5月第7回俊友会定期演奏会にてビオラソロを担当(ホルツバウアー作曲、ヴィオラとコントラバスのための協奏曲)、開演前に挨拶した礼宮殿下が「…その…ヴィオラのソロがいささか技量不足ではないかと思って(会場笑)、あの…多々お聴きづらいところもあるかと思いますが(会場爆笑)、どうぞ皆さまあの…がまんして、最後までゆっくりお楽しみいただければ、と思っております」、弟に謙遜の代弁をさせたのかと思いきや本当に物凄いびよらソロだった事件
- 祖父である昭和帝崩御のその翌日、様々な儀式が執り行われる中で浩宮の表情は平然としていて歩き方も胸を張ったツッタカター事件
- 昭和帝崩御後、ご一家で陵墓について話し合ってた時ただ一人「それでは先に失礼します」と引き上げた事件。滅多に人を非難する事が無かったという実妹・紀宮から「(お兄様は)無責任ですよ」となじられたとも言われている。【あとよろ】
- 榊原郁恵もお好きであったらしい事件
- 大場久美子もお好きであったらしい、要するにボインちゃん好み事件
- 報道関係者や取り巻きの中に自分好みの美人を発見すると「お写真一枚よろしいですか。あんまりお美しいものですから」と見境なしにナンパしてた事件
- しかも外国でも同じことをして、スウェーデンの美人女性記者に写真をねだり、スウェーデンの新聞に「日本の皇子は○○嬢のハートを射止めることができるか?」とからかい記事を書かれ国境を越えて馬鹿にされちゃったよ事件
- ブルックシールズを皇居に招待事件
参考画像:1990年10月25日 来日中だった女優ブルック・シールズを浩宮が宮内庁を通じて私的に招いたという記事(フォーカス平成2年11月9日号) - 趣味の登山ではウィスキー持参でお楽しみが専ら、また重い機材を運んで登山に同行する取材記者に向かって「だらしないですね」と荷物を持つ必要が無い自分の立場をすっかり忘れ軽口を叩く事件
- 1992年常念岳登山した折、山小屋「常念小屋」にて徳仁が出発の際、控えていた侍従たちが駆け寄り、スリッパを脱ぎ散らかしたのを見て、「ウチの連中はお行儀が悪くて困りますね」と苦笑、「山田さん(=常念小屋主人)、二人でスリッパをそろえましょう」と言い、侍従があわてて手伝おうとすると「いいよ。君たちはそこにいなさい」と制する、スリッパを揃えるのはいいことだが山小屋主人にいちいち部下の不始末を告げて手伝わせるのはちょいといかがなものか、脱ぎ散らかした当人に片付けさせるのが筋では?事件≪週刊現代2009/10/10号≫