歌手の西城秀樹さん(享年63)が16日に亡くなったことを受け、プライベートで親交が厚かった女優・小川知子(69)が17日夜、神奈川・横浜市内で取材に応じたそうです。関係者に支えられた小川は目に大粒の涙をため、まず、美紀夫人から託されたメッセージを報道陣に伝えました。
西城さんとは家族ぐるみの付き合いだった小川。美紀夫人、西城さんの3人の子供とご飯を食べたり、自宅に招くなど、親しく交流していたそうです。会見に応じるにあたり、美紀夫人からメッセージを託されてきたことを説明し、「倒れて、入院してから2、3週間、毎日病院で看病できたことがすごく幸せだった。子供たちも最期に立ち会えたことが良かったと思います。(亡くなった実感がなく)まだ夢のようです」と夫人の胸中を伝えました。
西城さんは4月25日、家族の前で倒れて入院。そのまま意識が戻ることなく息を引き取ったそうです。
取材前に弔問し、西城さんと悲しみの対面をしてきたという小川は「アイドルの一番の時のような顔をしてました」と表現。西城さんに「秀樹…みんなのこと心配しなくていいから、よく頑張ったね。お疲れさま。かっこいいね」と言葉をかけてきたことを明かしました。
西城さんは01年5月に会社員だった18歳年下の美紀さんと結婚。1女2男にめぐまれました。03年、11年と2度の脳梗塞で身体には麻痺が残ったが、西城さんは「(子供たちを)追っかけていけるように、走れるようになりたい」と話していたという。この思い出を語り始めると、小川はこらえきれずに涙。言葉に詰まりながらも「愛してるよ…。かっこいいよ、秀樹。あの世でもモテるだろうから気をつけなさい」と空を仰いだということです。
哀悼の意を表し、お悔やみ申し上げます。
ポップス初のレコード大賞。
1973年の「愛の十字架」、翌年の「傷だらけのローラ」で、西城秀樹さんはポップス歌手としては史上初めて2年連続で日本レコード大賞を受賞します。74年の第25回NHK紅白歌合戦には、トップバッターとして初出場を果たし、ヒデキの人気は確たるものとなっていきました。
<西城秀樹さんの日本初の功績>
○ペンライト(番組で懐中電灯)
○野外フェス(1975年富士山麓のステージを一から建設12万人集客)
○ライブでのファンの"コール&レスポンス"(情熱の嵐・客席のファンからの“君が望むなら♪ヒデキー!!”コール)
○観客参加で歌い踊る(ヤングマン)
○スタジアムコンサートをソロアーティストとして初めて開催(1974年大阪)
グループでの日本初は1968年のザ・タイガース
○マイクスタンドで歌う(1974年薔薇の鎖・8枚目のシングル「薔薇の鎖」は、マイクスタンドを振り回しながら歌う、当時としては斬新でセクシーな振り付けが絶唱型)
濃い体毛やへそ下の毛を指す俗語「ギャランドゥ」は、西城さんの代表曲に由来します。言葉として世間に広めたのは歌手の松任谷由実さん。
西城秀樹さんが60歳の誕生日となった13日、赤坂BLITZで還暦記念コンサートを開催されました。
その還暦記念コンサートで配布されたお土産「お祝いパッケージのバーモンドカレー」が、Twitter上で話題になっていました。