1年4カ月にわたる闘病の末、昭和64年1月7日に崩御した昭和天皇。侍医を務めた伊東貞三さん(87)がその最期を明かした。
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昭和天皇の晩年、闘病中の陛下は、皇太子さまに臨時代行の形で国事行為を委任なさりました。そのことをとても気にかけておられ、侍従に対して「いつ戻すのか」「摂政でも立てるのか」とお尋ねになったという話が伝わっています。私も同じ話を御所で聞きました。
ただ私は、その言葉は、天皇の地位を譲る、譲らないといった思いとは無縁なものだったと思っています。なぜなら、侍医長の判断で陛下にはがんの告知はしていません。陛下は、われわれ侍医を全面的に信頼してくださった。だから、病状や治療方針を、最後まで何もお聞きにならなかった。
ご自身の病気は治るとお考えだったから、「いつ戻すのか」とお尋ねだったのではないでしょうか。
最初の異変が昭和天皇を襲ったのは、昭和62年4月の天皇誕生日のことです。祝宴で嘔吐され、夏の那須御用邸では、食事を召し上がると、お戻しになった。
皇居に戻った秋に、検査をすると、十二指腸が数センチにわたり細くなっていました。よくこれまで食べ物が通ったと思うほど、腸は縫い針のように細くなっており、すぐに手術を行いました。われわれ侍医は、このときに陛下の閉塞(へいそく)の原因をがんであると認識しました。
1年4カ月にわたる闘病の間、陛下は最後まで「痛い」「苦しい」などとおっしゃらなかった。陛下は、「執着」だとか「私」という言葉から遠いところにある方でした。天性のご性格によるものかもしれません。ですから、そうした昭和天皇の姿を拝見した私には、国事行為についてお尋ねした昭和天皇に他意があったとは思えないのです。
いつも泰然とされていた昭和天皇ですが、五女の島津貴子さまがお見舞いに姿を見せると、それは嬉しそうなご様子でした。
「おたかちゃん、おたかちゃん」と末っ子の貴子さまを可愛がって。貴子さまは、私たち侍医に対して、陛下の病状を詳しく尋ねていました。その場面だけは、一般の仲むつまじい父親と娘さんでした。
私が当直を担当した大みそかの夜、陛下の呼吸が止まりました。看護師がお胸をタンタンとたたくと、息が戻りました。「ああ昭和64年を迎えた」。そんなことを考えていました。そして迎えた1月7日の午前6時33分。心電図のモニターがツーとまっすぐになり、陛下の心臓が止まりました。昭和天皇がそうであったように、昭和の幕は、ごく自然に静かに降りてゆきました。
それから数年で皇室の姿勢はずいぶんと変わりました。いまの天皇陛下は平成15年に前立腺がん、平成24年に心臓のバイパス手術を受けております。いずれも手術の内容やリスクについて、両陛下には十分な説明とインフォームド・コンセントがなされました。ご自身の病状について世間にもきちんと説明なさっています。
医師の立場から拝見しても、皇室の在り方は、時代によってさまざまであるものです。
昭和天皇は、日本の第124代天皇(在位:1926年12月25日 - 1989年1月7日)です。
歴代天皇の中で(神話上の天皇を除くと)在位期間が最も長く(約62年)、最も長寿(宝算87)であったそうです。
昭和天皇はなくなるその日まで日本国の天皇でした。
英国のエリザベス女王は御年90歳ですが、生前退位など毛頭考えておられぬようですね。
一般参賀もそうですが、基本、国民に対するお手振りは天皇陛下だけで良いと思います。
昭和天皇はいつも、徳仁親王ではなく文仁親王をお側におかれていたそうです。